観光地で見た素晴らしい風景に対して、形成されるまでに要した時間や自分が居なくなった先の未来に想いを馳せて欲しい。普段自分が住んでいる街の風景も同じような感覚で眺めてみると、日々の生活では気が付かなかった特別な感情を覚えるかもしれない。私が撮ってきた風景写真が、人と風景が対話するための媒介になり、きっかけになれば本望だ。
展示写真の解説
私が撮った風景写真には私⾃⾝の⼼理的・⽂化的な概念も含まれていますが、展⽰した写真の多くは意図せず偶然撮れたと⾔える写真が多いです。撮影時の意図とは切り離して、私⾃⾝、これらの写真が何を表しているのかを客観的に推察してタイトルを選びました。それぞれの風景写真に正解のタイトルは無いので、ぜひ写真を見たあなたの感じたことを教えてください。
Reflection
⼈は素晴らしい景観を眺めるとき、対話をしているように感じます。時にはその対象と、時には⾃分⾃⾝と。富⼠⼭は日本で一番有名な景観ではないでしょうか。何百年、何千年も前から、眺める人達はときに何かを宣言したり、祈ったり、感謝をしたり、沢山の対話を繰り返してきたと思います。この写真から、富士山を眺める⼈の⼼のなかで起こる「問いと応え」を感じました。
(撮影場所:静岡県 富士宮市 田貫湖から望む富士山)
Forgiveness
人は精神も肉体も健全なときは自信を持って他者と対話できますが、疲れている時は自分の吐き出した想いをただ聞き流して欲しかったりします。
富⼠⼭を眺めるときの⼒強い対話と⽐べて、この開聞岳(別名:薩摩富士)の写真からは、眺める⼈の想いが受け⼊れられ、そのまま洗い流してもらえるような⼒を感じました。
(撮影場所:鹿児島県 指宿市 川尻海岸から望む開聞岳)
Point of Inflection
人生には、流れの変わる変曲点がある気がします。振り返ると、その時が転機であったと分かりますが、日常を一生懸命生きているとなかなか気が付かなかったりします。
急峻な谷の向こうから朝日が昇ってくる瞬間、影は一気に光へと転じていきます。朝日が山にかかった瞬間の風景に、はっきりとした変曲点を感じました。
(撮影場所:宮崎県 日之影町 七折)
Vitality
植物、特に樹木は、その風景が数千年かけて造られてきたことを感じることが出来る要素の一つです。長い年月を生き抜いてきたことが感じられる樹木からは力強い生命力を感じます。
人間が造った鳥居の荘厳さ以上に、包み込む桜の生命力は力強く、その桜の間を歩いていく人の後ろ姿からは、それらをさらに越えた意志の力や生命力を感じました。
(撮影場所:山口県 山口市 徳佐八幡宮前)
Be Alive
人は日常生活のなかでは、なかなか生きている実感や命への感謝を感じにくいものです。時に事故や病気など死を意識するような場面に立ち会うと、生きていることを強く実感できるのではないでしょうか。
この風景写真は、日の出と干潮の時間が重なり神社の鳥居へ続く道が照らされている様子です。右側はまだ夜の薄暗さが残っていますが、左側は徐々に朝日に照らされてきています。数時間前の夜中にこの風景に向き合ったら、おそらく死のイメージに近い恐ろしさを感じると思います。海の向こう、鳥居の先は違う世界に感じるでしょう。こちら側と向こう側が道で繋がり、朝日が昇ってきているこの時間だからこそ安心感を覚えます。
(撮影場所:長崎県 壱岐市 小島神社)
Vanishing point
普段当たり前に会っている人、学校や職場、大切な風景、それぞれ人生の状況が変わり会わなくなったり、行かなくなったりしたときに、その存在の大きさに気が付いたりします。
この写真を見るとすごく静かで音を失くなってしまったような感覚になりますが、それとは対照的に、水面に写った樹木とその水影は大きく振れた音の波形図にも見えます。その波形を見ていると、一層、失くなった音に対して感情が動きます。
(撮影場所:山口県 下関市 一ノ俣桜公園)
With Ease
学校や会社などの小さなコミュニティで生きづらさを感じるとき、そこを抜けて外に出ていくことへの不安感も一つの原因である気がします。
この風景写真は、鳥取砂丘の先の水平線に真っ赤な夕陽が沈んでいく瞬間です。厚く覆われた雲が水平線付近で途切れていることで、雲の境目・夕日の赤色・水平線・砂丘、という4本の水平な直線が象徴的に見えます。砂丘の上に立つ小さな人影と比較すると、どこまでも続くように見える直線は壮大なスケール感です。ここではないどこかに逃げ出したとしても、空も海も大地も、私たちを優しく包んでくれているという安心感を感じました。
(撮影場所:鳥取県 鳥取市 鳥取砂丘)
Inspired by Kiyochika Kobayashi
日本において写真という技術はまだ200年ぐらいの歴史しかありません。写真技術が伝わる以前は、三次元の風景を二次元にとどめる表現は「浮世絵」のような絵画が主流であったと思います。日本最初期の写真家達は「浮世絵」を見て培ってきた構図を捉えるチカラを活かして風景写真を撮ったのではないでしょうか。
沢山の素晴らしい浮世絵師達が作品を残していますが、なかでも小林清親が浮世絵で描いた風景は、その一瞬を捉えた構図や色彩表現が素晴らしいです。街を歩きながらデッサンをしていたという彼の浮世絵の構図からは、現代のストリートスナップにも通じる技術を感じます。日本らしい美しい瞬間を撮ることができたとき、小林清親の浮世絵を思い出されます。
(撮影場所:鹿児島県 霧島市 霧島神宮)
The crossing
道と道の結節点は古くは辻と呼ばれ、人と人が出会う場所として特徴的な風景をつくり出します。それが橋と水路だと、また変わった風景を見ることができます。
この風景写真は、橋の上で立ち止まる親子と、船で橋の下を通る観光客の方達との出会いの瞬間です。橋と水路だけでなく、橋と手前の電灯も交差して、座標軸のように領域が区切られて見えます。左上の親子と右下の観光客は、人数・服装から感じる時代感・当たっている光の具合・向いている方向など、多くの事象が対照的です。
(撮影場所:岡山県 倉敷市 中橋)
Within the rainbow
子どもの頃に「虹の足」という詩を読みました。主人公がバスから窓の外を眺めていると、虹の足が小さな村を包んでいるのが見えたが村の人たちは誰も気づいていない、つまり、みんな他人には見えるが自分には見えない幸福の中で生きている、という詩です。
この坂は「酢屋の坂」という名前で、かつでこの場所で商売をしていた塩屋長右衛門という方が繁盛させた「酢屋」にちなんで付けられました。この坂を毎日通る地元の方にとっては当たり前の通勤風景でも、地域外から訪れた人からは、地域の歴史と人の営みの結果残された凄く貴重な道を歩いている様子に見えます。
(撮影場所:大分県 杵築市 酢屋の坂)
I think, therefore I am
人生のなかで、何をやっても上手くいかない時期や耐える時期は何度かあると思います。その際に確かなものは、自分自身の感覚だけなのかもしれません。
この風景写真をみると、水面と霧の境界線・鳥居の大きさ・鳥居と枝との距離・鳥居と撮り手との距離、すべてがあやふやでつかみどころが無い感覚を覚えます。そのなかで正確に感じ取ることが出来るのは、この風景写真を見ているあなた自身の感覚だけかもしれません。かつてデカルトが唱えた「我思う、故に我在り」という言葉を思い出しました。
(撮影場所:大分県 由布市 天祖神社)
Over Distance
目の前に広がる風景は数百万年という時間をかけて形成されてきた結晶のようなもので、現代を生きる私たちはその時間に想いを馳せて、これから先の遥か未来に何を残していくのかを選択することができます。
この風景写真は、昭和時代後期につくられた渓石園という日本庭園の写真です。渓石園は耶馬溪という歴史ある奇岩の渓谷の中に位置しています。耶馬溪の歴史は古く、数百万年前に溶岩が隆起し景観の基礎が形成され、千数百年前に岩山に神仏の姿が掘り始められ、江戸時代後期に作家の頼山陽が「耶馬溪」という名前を付けた場所です。
霧が晴れた瞬間の風景写真のなかで、比較的新しい日本庭園の滝と、その先にある歴史ある耶馬溪が一直線に繋がった気がしました。風景写真は、物理的な距離も時間的な距離も越えることができるのだと思います。
(撮影場所:大分県 中津市 渓石園)
“wa”
日本には昔から「八百万の神」のという概念があり、あらゆる事象や場所、道具にまで神が宿ると考えられてきました。海外におけるアニミズムとは少し違いがあり、神と人間との調和という概念が重んじられていて、そのバランスを崩すと罰があるという感覚を日本人は持っています。
この風景写真は、傘を差した3人の巫女が山の上にある寺社へと出勤する様子で、一礼して鳥居の下をくぐろうとしている瞬間です。鳥居から向こうは神様の領域だと感じる感覚、真ん中は神様の通り道であるから開けておく感覚、これらは英語に訳するのが難しい日本人ならではの感覚だと感じました。
[2020年にInstagram世界公式アカウントにて紹介された写真を再編集したものです]
(撮影場所:大分県 宇佐市 宇佐神宮)
個展概要
12/13(金)対談イベント
・ 時間:18:00 − 19:30
・ 会場:小倉城庭園書院棟
・ ゲスト:陶芸家 井上祐希 氏 @井上萬二窯
・ 参加費:¥1,500(先着20名程度)
※ テイクアウトのワンドリンク・ポストカード付
※ 参加費は当日会場にて現金にてお支払い
昨年の様子